劇場版Fate HF第三章 原作未プレイ視聴者の疑問

 

はじめに

こんにちは。みなさん劇場版 Fate/stay night [Heaven’s Feel]第三章はご覧になりましたでしょうか。


 

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最終章となる今作は一章・二章で膨らんだ期待に見事応えた出来だったと思います。しかし尺の都合もあり原作でなされていた説明や描写が一部カットされ、原作をプレイしていない視聴者にはやや理解が難しいのではないか、という懸念の声も聞かれました。

そんな声に対する回答という意味も込めて、今回は原作を最後までプレイしていない状態で視聴した私が三章の疑問点について述べていきます。

 

 

 

ファン向けの内容である劇場版HF

疑問点を記す前に劇場版HFがどういった客層を意識して作られたのかについて私の考えをお話しさせていただきます。

 

まず劇場版HFがファン向けに作られたものなのか、あるいは初見でも見られるように作っているのかを考えるとこの作品は初見向けには作られていないと感じました。

理由は第一章でエミヤVSランサーから士郎と凛の合流までをダイジェストで見せたからです。このシーンをなんの知識もなく見てしまうと、なぜか士郎が同級生の赤い女と仲良くなっており、これまたなぜか士郎が黄色の雨がっぱを来た少女を侍らせているという謎だらけの状況になってしまいます。

しかしこのシーンはFate/stay nightの3つのメインルートに共通する場面なので、視聴者がFateSNのいずれかの作品に触れていると想定するのであればカットしやすいシーンでもあるのです。

この構成によりセイバー召喚もダイジェストに。Fateを象徴するシーンであるこの場面を飛ばしてしまうのは勇気ある構成だったと思います。


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劇場版HFでは問えなかったセイバー

 

劇場版HFが"ファン向け"に作られたことが分かったところでもう1つ気になるシーンがあります。それは同じく第一章で、教会の前でイリヤがセイバーに問いかけるシーンです。

イリヤはセイバーにアインツベルンを知っている?と問うのですが、これに対しセイバーは少々伏し目がちになるだけで特に返答はしません。

 

原作の設定だとセイバーは第四次聖杯戦争で自分がアインツベルンのサーヴァントとして戦ったことは覚えていますがイリヤのことは知りません。しかしアニメUBWでは、セイバーはイリヤのことを明らかに認識しています。

上記のセイバーの行動はイリヤのことを知っているとも、知らないとも捉えられます。イリヤのことを認識していると捉えられるような演出を施したのはアニメUBWファンが違和感を持たないようにするための仕掛けです*1

また劇場版HFはアニメUBWが放送する直前に制作が発表されたので、このことからもUBW視聴者がHFを視聴することは想定済み、あるいはUBWでファンを増やしHFの客層に取り込む、という戦略もうかがえます。

 

以上から劇場版HFは最低限アニメUBWを視聴したファンを想定した作りになっているというのが私の見解です。

 

 

疑問や違和感を感じた点

今度は私個人が感じた疑問や違和感を感じた点、理解が難しいのではないかという声を聞いた場面についての私の解釈などを述べていきます。

 

前提として私のFateへの理解度をお話ししますと、原作はHF第二章の範囲までプレイ済み。アニメはDEEN版とUBW、またスピンオフ作品であるFate/ZEROを視聴しています。世界観を共有する他のTYPE-MOON作品については、月姫魔法使いの夜をプレイ済み、劇場版空の境界を視聴済みです。

またHF三章を1度視聴した後、原作HFルートを最後までプレイしもう1度劇場に足を運んでいるので、現在は大方の疑問について解決している状態です。ここで語る疑問とは主に1度目の視聴の際に感じたものとしてお考え下さい。

 

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遠坂の庭に埋めてきた

困惑する原作未プレイ視聴者が続出するのでは、と言われたシーンですが、庭に埋めたという言葉はおそらく言峰の冗談であり凛が遠坂邸で身体を休めているということは理解できました。

この言葉がなにか重要な意味を持っていたり言葉通りの意味だとすれば士郎が食ってかかると思うので、士郎の反応から考えてもこのような解釈になりました。

 

森の中の教会

森の中で戦っていたはずなのに突然出てきて言峰が回想まで始めるものだから、一瞬言峰の走馬灯?と思ってしまった。アインツベルンの所有地なので教会が森の中にポツンと佇んでいても不自然ではない…のかなぁ?このあたりは設定をしっかり理解しているわけではないのでなんとも言えませんが。

ちなみにこのシーン 原作だとそのまま森の中で戦っています。言峰が聖母の絵を見て亡き妻を思い出したり、十字架の前で洗礼詠唱を用いて臓硯を倒すなど画の映えを意識した改変なのでしょう。そういう意味ではとても良いアレンジだったと思います。

 

ゾォルケンとユスティーツァ

遠坂家の当主に比べて2人は少し"いい仲"に見えた。ここは改変された箇所なので未だに2人の仲については分からず仕舞いですが、本筋には関係のない話なので視聴に支障をきたすことはありませんでしたがやはりただの同盟者には思えないんですよね…気になる。

 

凛のペンダント

凛は役に立つかもしれないから持っておけと士郎に告げ、最終盤で役に立ったようにも思えたのですがイマイチ何の役に立ったのかは分からなかった…。

 

ライダーの名前を言えない士郎

個人的にはここが一番の困惑ポイント。士郎が突然吃音を発症したようにすら思えた。

原作では士郎の記憶や意識が徐々にあいまいになっていく場面が散りばめられているのでライダーのことを忘れてしまったのだと簡単に理解できますが、尺の都合でそういったシーンは省かれていたので分かり辛かったです。士郎が心の内で1度「こいつ誰だっけ」くらいに描写を留めておけば分かりやすかったかと思います。

 

現界し続けたライダー

聖杯戦争が終わった後もライダーは現界を保っていました。第四次聖杯戦争ではギルガメッシュが聖杯の泥を被り受肉し、ギルガメッシュの契約者である言峰は泥を心臓の代わりとして生き永らえました。同じようにライダーも契約者である桜が聖杯と成った影響で受肉したのだと考えていましたが実際は桜の膨大な魔力によって現界を続けていたようです。

聖杯が無くなったにもかかわらず彼女がまだサーヴァントとして現界しているのはおかしいのでは、という新たな疑問も生まれてきますが…。このあたりの設定は難しいですね。

 

士郎の安否

一番大事なオチの部分ですが、やや描写が分かり辛かったようにも感じます。士郎の肉体はなくなってしまいましたが魂は無事回収され、燈子お手製の人形に魂を定着させ復活。この一連の流れを原作未プレイの視聴者が理解できていれば今回の映像化は大成功だと言えるでしょう。

私はなぜか第三魔法の存在を失念していたので士郎の魂をどうやって回収したのか疑問に思ったまま視聴を終えてしまいました。上映後すぐに思い出したのでこの疑問がしばらく続くということにはなりませんでしたが。

 

原作では士郎の体(人形)は魂に引っ張られて元の士郎の体と同一のものになった、と描写されていましたが今作ではそこを描写していないので未プレイの視聴者からは「士郎は最後人形になった」との声をよく耳にしました。その解釈は士郎(の体)は人形になった、という解釈であると願うばかりです。

せめて魂は士郎本人のものでないと桜はこの先士郎の人形でおままごとを続けていくことになりますから。それはあまりにも救われない、というかオチとしてしょうもないですからね。

 

花見に来ていた茶髪の男

美綴の弟かな?

 

 

おわりに

以上が劇場版HFの視聴に際して私が感じた疑問点となります。このシーンはこのような説明があった、このシーンについての解釈を聞きたいなどありましたら追記しますのでご指摘ください。

 

 

最後になりますが、約3年の月日をかけ公開された劇場版Fate/stay night [Heaven's Feel]全三章、本当に素晴らしい映像化でした。

 

原作の奈須きのこ先生、監督の須藤友徳さん。並びにすべての関係者様に感謝を。

 

 

*1:UBWの改変もアニメFate/ZEROの視聴者を意識してのことだと思われる。